いすゞ 117クーペ 初期型 エブロ 1/48 Oldiesシリーズ
今回は4輪車に戻りまして、EBBROの1/48いすゞ117クーペでございます。

ご存じだとは思いますがEBBROは静岡の会社MMPが中国の工場と提携し、企画・販売しているミニカーのブランドです。
会社の設立が1998年だそうですから比較的新しいブランドなんですね。
国内の会社らしく国産車が充実したラインアップは嬉しい限りです。ベレットMX1600なんかも出してくれないですかねぇ。(笑)
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| パッケージ | 台座 |
さて、モデルの方ですがEBBROらしく値段以上に精密感があって素晴らしい出来栄えです。
が、実車の方が微妙なラインに拘った美しさが売りなのでミニュチュアでもその辺の再現度が気になってしまいます。
このモデルではヘッドライト下部側面のラインとCピラー根本周辺の形状の再現性がやや気になりますが、その他はスケールなりのデフォルメも効いていて嬉しい完成度です。
モデルは117クーペの初期型、通称「ハンドメイド」と言われているタイプです。
トヨタ2000GTと並んで私の好きな日本車の代表格です。
117クーペがデビューした昭和40年代は誰もが買える大衆車の開発が一段落し、高度成長期で生活に余裕が出始めたユーザーからもうワンランク上の車を求める声が出始め、後にスペシャリティーと呼ばれる事になる車がデビューし始めた時期です。
技術レベルでも世界に追いつき始め、日本の自動車業界が最も活気づいていた時期でもあります。
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当時、日本の自動車メーカーはデザインの向上を目指してイタリアのカロッツェリアと提携をする事が多く、日産はピニンファリーナ、マツダはベルトーネ、日野はミケロッティ、ダイハツはヴィニャーレと結びついていました。
いすゞはギアと提携を結びフィリッポ・ザビーネのデザインにより中型セダン「フローリアン」の開発を進めていましたが、その途上ギア側からフローリアンをベースにしたスポーツカーの提案が出されてきます。
これはいすゞからの部品供給によりギア側で500台程度を生産しこれを販売したいというものでした。
現地でのアフターサービスなどの問題から生産に関しては保留となりましたが、デザイン研究用として開発は続行されました。
このスポーティーモデルのデザインを担当したのがベルトーネから移ってきた当時若干27歳だったジョルジェット・ジウジアーロです。
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| フロントのサイド下はもう少し丸い様な | リアホイールハウス上はもう少し盛り上がってCピラー根本ともう少し滑らかに繋がってます |
そして完成した試作車は1966年のジュネーブショーに117サルーン(フローリアン)と共に117スポルトとして参考出品され好評を博し、7月のイタリア国際自動車エレガンスコンクールでは名誉大賞を受賞しました。
完成した117スポルトはジウジアーロがベルトーネ時代に担当したフィアットディーノ・クーペ(フェラーリ開発のディーノV6エンジンを搭載した4座クーペ)を更に発展させた様な流麗な4座クーペでした。
フローリアンと同じ117という開発コードが与えられていたものの、ショーの段階ではフローリアン自体が開発段階だった為にベレットのパーツも多数流用されていたそうです。
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いすゞは当初117スポルトの販売に対して否定的なコメントを出していましたが、各ショーへの出品が好評な為、販売部門の反対はあったものの当時の岡本常務の強い意向で117クーペとして量産化が決定されました。
ジュネーブショーの翌1967年にはフローリアンが発売され、117クーペの量産型も開発が進められますが、量産にあたっての最大の問題点は試作車の微妙な曲線をいかに変更無く再現するかでした。
しかし、当時の国内の生産技術ではそれは難しくイタリアのクラフトマン、ジョルジョ・サルジョットを招き、板金などの技術指導を仰ぐ事となりました。
デザインも手がけるサルジョットにとってはライバルの作品に当る訳ですが、熱心な指導をいすゞの技術者に行い、その甲斐もあり117クーペの量産型は試作車のボディラインをほぼ完全に再現する事に成功します。
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| サッシ部は手曲げのステンレスが使われていました | 木目パネルに7連メータ、ウッドのステアリング |
そして最初の発表から2年以上が経過し発売が危惧されるなか、1968年12月に遂に117クーペは発売されました。
シャーシーは基本的にフローリアンと共通、エンジンはベレットGTVのOHV1600ccをDOHCに変更したもので、ベレットの90HPに対して120HPまでチェーンされていました。
ボアアップや4バルブ化も検討されましたが、開発期間との兼合いからこれは見送られました。が、後に1800cc、後期型では2000ccのバージョンも出てきます。
このエンジンは日本初の乗用車用DOHCエンジンであり、なかなかに精悍なエンジンですが、開発時にはアルファなどのエンジンデザインなども意識したそうです。
1970年11月にはこれまた日本初の電子制御燃料噴射装置付きのバージョンECがリリースされています。
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反面フレームやサスペンションはフローリアンのまま(前輪の構成は少し違ってますが)ですので、リアがリジットなどスポーツカーとは言い難い面もありましたが、よく調整されたそれはスペックから想像する以上にしかっりした性能をみせたそうです。
この初期型の117クーペはボディの生産に当たっては板金叩き出しなど手作業に依るところも多いため月産は30~50台と少なく、価格も172万円(東京店頭渡)と高額なプライスな付けられました。当時クラウンの価格が112万円といいいますから如何にこの車が高価だったかが伺えます。
この月産台数は当時のイタリアンスポーツカー(アルファなど)の輸入台数が月20台程度だった事から設定された台数だったようです。
つまり、そういった購買層に向けてアピールも考えていた車種という事です。今で言うとレクサスみたいなものでしょうか。
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| 前輪はダブルウィッシュボーン、スタビはフローリアンから変更されてます | リアは4枚リーフのリジッド、リーフと平行にトルクロッドが付けられてます |
月産台数が少ない事などからいつしか117クーぺは、手作りだという風評が広まる事となり、それが初期型の通称「ハンドメイド」となっています。
確かにボディの板金だけでなくサッシ部のステンレス手曲げなどハンドメイド部分は多いですが、当時はまだオートメーションが発展途上だっただけに、どんな車にも多かれ少なかれ手作りの部分は有ったんですけどね。
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そんな117クーペも1971年のGMとの提携で導入されたプレス技術などによって1973年3月からは月産千台以上の量産体制が整い、流麗なフォルムはほぼそのままに大量生産が可能となり、価格も大幅に引き下げられる事となります。
ハンドメイドの高級車から文字通りの量産車へ、これは工業的にイケイケだった当時の世相の一面を反映していると言えると思います。
(あ~個人的には別にハンドメイド至上主義ではありませんが、この車の元々の存在意義を考えると大量生産への転換が正しかったのかは疑問の残る点だと思います。)
なお、117クーペは発売後10年間で廃車届けが出された数が0という業界記録を持っているそうです。この車が当時のオーナーに如何に愛されていたかがそこからも分かりますね。

















