ファスト・フレディとキング・ケニー -NS&NSR500 その3-
1982年のホンダチームは監督に全日本125ccチャンピオンの経験も有るテストライダー出身の開発者、尾熊洋一が就任しました。
ライダーには新人ながらもずば抜けた速さを見せるフレディ・スペンサー。1977年に日本人として初めてのWGPチャンピオン(350ccクラス)を獲得し、3年間NR500とも苦楽を共にしてきた片山敬済。前年ガリーナ・スズキからRGγ500を駆り500ccクラスWGPチャンピオンに輝いたマルコ・ルキネリの3名がNS500を担当、NR500に押し掛けスタートが速い事からロケット・ロンの愛称を持つロン・ハスラムといった体制です。
そして迎えたアルゼンチン・グランプリ予選当日、サーキットは騒然となりました。
NS500がスペンサーのドライブによっていきなり2位のタイムを叩き出したからです。
しかもトップのケニー・ロバーツとのタイム差は僅か0.05秒です。
決勝ではスペンサーは一時トップに立ったものの後半エンジンがだれてしまい3位で終了しました。
しかし、前年まで1ポイントも獲得出来なかったホンダのニューマシンがいきなり出したこの結果は各ワークスに大きな衝撃を与えました。
なかでも衝撃を受けたのはチャンピオン奪還を狙うロバーツだった様で、第2戦からは来年登場予定だったV型4気筒エンジン搭載のOW61を熟成途中だったにも関わらず投入しています。
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しかし、第2戦以降はマシンのマイナートラブルやライダーの転倒などで思うような戦績はなかなか上げられませんでした。
この間NS500はエンジンの耐久性アップとマシンの更なる軽量化を目指し絶え間ない改良が続けられています。
この時期投入された大きな改良ポイントとしては角形断面アルミフレームとカーボン・ファイバー製のコムスター・ホイール(計で4kg以上の軽量化)、ニカジル・メッキシリンダーなどがあります。 また、心材をカーボンとしたスイングアームなども実験的に投入されました。
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| 角形断面アルミフレーム | カーボンスィングアームの場合後端部が黒鉄色になります。 |
そして迎えた第7戦のベルギーグランプリ、ホンダチームは一つの賭けに出ます。
スペンサーのマシンを担当している名メカニック、アーブ・カネモトとも相談し、オイルの混合比をそれまでの25:1から30:1に変更したのです。
2ストではガソリンにオイルを混ぜ各部潤滑を行いますが、この混合比率が低いほどエンジンの吹けは良くなりますが、同時に焼き付きの危険も出てくるのです。
この変更は成功し、スペンサーはシーン、ウンチーニ、ロバーツなどの強豪を抑え見事ホンダに15年ぶりのWGPでの勝利をもたらしました。
その後、第10戦スエーデンGPでは片山が、第11戦サンマリノGPでは再びスペンサーが勝利し、82年は後半3勝、ランキングはスペンサーが3位、片山が7位、ルッキネリが8位と来期に期待が持てる結果を残し終了しました。
1983年、NRブロックはNS500の市販タイプ「RS500R」の販売を開始し、組織を「HRC(HONDA Racing Corp)」へと発展させます。
83年型「NS500(NS2B) 」の最大の変更点は後方2気筒にATAC(Auto controlled Torque Amplification Chamber)という可変サブチャンバーシステムを装備した事です。これにより中低速のトルクを増強し、エンジン本体はより高回転寄りのセッティングに変更されています。
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排気チャンバーは東ドイツのメーカー「MZ(Motorradwerk Zschopau)」の技師「ヴァルター・カーデン」により開発され、これにより2ストは劇的に出力を向上、4ストと同等以上に戦える様になりました。 その後MZの名メカニック・ライダー、エルンスト・デグナーが西ドイツに亡命、契約したスズキにその技術はもたらされ日本でも一般的な技術となって行きました。 亡命の経緯は当時スズキの技術者だった中野広之氏のサイト「日本のモーターサイクルの夜明け・スズキ挑戦の記録」に詳しい記述があります。 (写真はNSR500の物です) |
2ストエンジンの排気管にはチャンバーと云われる太くなった部分が存在します。
エンジンからの排気がこのチャンバーの太くなった部分(ダイバージェントコーン)に到達すると排気管内の圧力が低下し負圧波が排気を引き出す効果が生じます。逆に排気がチャンバーの終端部(コンバージェントコーン)に到達すると正圧波が発生し、余分な新気まで排気管に出てくるのを防ぎます。
チャンバーの形状や長さによって圧力波がエンジンに届くタイミングが決定され、これにより2ストエンジンの性格は大きく変わります。
ATACはサブチャンバーを開閉する事により負圧波や正圧波がエンジンに到達するタイミングを変更し、より広い回転数でトルクを引き出すシステムです。
こういった2ストの排気デバイスには他に可変排気ポート型があり、ソチラの代表的な物がヤマハのYPVSです。
ATACの具体的な構造に関してはコチラに市販バージョンですが簡単な図面があります。
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| ボトムリンク式リアサス | カーボンローターブレーキ |
その他の大きな違いはリアサスペンションがボトムリンク方式に発展し、リアブレーキにはカーボンローターを装備する様になっています。
また、リヤホイールが18から16インチに小型化され、車重は3kg軽い116kgとなりました。
根本的な変更を受けたという部分はなく、全体的にはマイナーチェンジといったところです。
その年、ケニー・ロバーツは今シーズン限りで引退を表明すると同時にWGP500ccのタイトルを取りに行く事を明言しました。
YZR500(OW70)に搭載したV型4気筒も昨年より熟成を続けており、フレームもより近代的なツインチューブタイプに進化し戦闘力を上げています。
ケニー・ロバーツは偉大なライダーです。それはハングオン走法(ライダーの体をバイクの内側にまで倒し込む走法)をWGPに持ち込んだとか、78年から3年連続でWGP500ccクラスチャンプとなったなどの実績面だけでなく、ヨーロッパとアメリカのレース文化の交流やライダーの待遇改善への尽力、コースの安全性の確保、メーカーとライダーの共同での開発体制のあり方への提言などの行動がロードレースが真のプロフェッショナル・スポーツに脱皮して行く上で重要なステップとなったのです。
その偉大なキングの称号を持つライダーが全力でタイトルを取りに来ると明言をしたのです。
一方のスペンサーも最年少のWGPチャンプとなる為にはこの年が最後のチャンスであり両者はその年最後まで一歩も引くことなく戦い続ける事となります。
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シーズン序盤第1~3戦はスペンサーが優勝、第4戦はロバーツが取り、第5戦は再びスペンサー、第6戦はロバーツ、第7戦はスペンサー、第8~10戦はロバーツと互角の闘いを繰り広げます。しかも、ここままでこの2人しか表彰台の真ん中には立っていないのです。
この結果がいかにこの年の二人が他のライダーより速かったかを如実に表わしていると思います。
残るはスウェーデンGPとサンマリノGPの2戦のみ、この時のポイントはフレディー117ポイント、ロバーツ115ポイントでその差僅か2ポイントです。
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アンダーストープ・サーキット(正式名称 スカンジナビアン・レースウェイ) 画像はAnderstorps Racing Clubのページより転載 |
スウェーデンGPの行われるアンダーストープ・サーキットは飛行場の滑走路と兼用の長いストレートと細かいコーナーが組み合わされた複合サーキットでコーナーに強いNS500に有利ともストレートが速いYR500に有利とも言いかねる場所です。
ちょっと変わった部分ではピットはストレートの手前にあり、フィニッシュラインはストレート後2つ右コーナーを過ぎた部分にあるため、ピットからも見えない位置にあります。
予選ではスペンサーがロバーツに1秒81の差をつけましたが、決勝当日のフリー・プラクティクスではロバーツも同等のタイムを出してきました。
決勝レースが始まりました。
スタートはスペンサーがキレイに決め、ロバーツは一時4位に落ちますが1周目を終えたところで早くも2位に上がってきます。
ロバーツはその後も好調なラップを重ね7周目にはスペンサーをストレートで抜き去ります。
スペンサーとの差は一時3秒近くになりましたが、その後スペンサーも追い上げ激しいバトルが繰り広げられます。
そして、最後のストレートにロバーツが先頭で入って行ったときにホンダの人々もヤマハの人々もロバーツの勝利が決まったと思いました。
最後の連続コーナーに2台が消えていき、それぞれが撤退の準備に入ろうとしたとき、場内に大歓声が響き渡り、場内アナウンスも何事かを昂奮気味に喋り始めました。何かが起こったのです・・・













ドルフィンが2輪レースに興味を持ち始めたときにはケニーは引退していました。
しかし、ビデオで83年WGPを見てみると燃えました! 「もっと早く2輪レースを見ておけば良かったッ」と思いましたね。
それはケニーが8耐復帰してその走りを見た時にさらに強くなりました。
WGPでは今は無きサイドカーレースも好きでしたね。
お互い身体には気をつけましょう。
それにしてもレーシングサイドカーとは渋いですね。
ニーラーのパッセンジャーほど怖わそうなものは他に無いですよね。
自分では絶対やりたくないです。(w